“国家の品格”でもよくでてくる惻隠の情は、
孟子の性善説の考えからきている。
つまり、人間は天から善なる性をうけてこの世に生まれると考えた人の心には次のものがあると考えた(四端の説)ということである。
まぁ、一つの考え方としてではあるが、参考としてあげると。
惻隠の心 : 人の不幸を見過ごせぬ心
羞悪の心 : 自己の悪を恥じ人の悪を憎む心
辞譲の心 : 人に譲る心
是非の心 : 物事の善悪を判断する心
このそれぞれが仁・義・礼・智の端(糸口)であるとしている。
古き良き時代???の日本にはこれらの“心”があったような気がするが、最近は目を覆うばかりである。
建築偽装問題などは、物事の善悪を判断する心(是非の心)に問題があるし、偽メール事件で永田氏を傘にかかって攻撃している一部の議員さんに至っては、人の不幸を見過ごせぬ心(惻隠の心)に欠けているのではないだろうか。 少なくても国民の血税を使って議論すべき問題ではなかったような気がするのだが。。。 議員としての資質を問う人もいるであろうが、それならば
私利私欲のために故意的に国民を背くようなことを平気でしている議員こそ問題なのでは。。。
孟子の性善説に
荀子が反対して唱えた人間の本性に対する主張で、「人の性は悪なり、その善なるものは偽なり」から来ている。
ここで人間の本性として捉える「悪」とは、人間が美しいものを見ようとしたり空腹感を覚えたり安楽を望もうとしたりするという自然な欲望のことであって、現代日本語のいう「悪」とは違う。
人間の本性はこのように欲望的存在にすぎないが、後天的努力(すなわち学問を修めること)により公共善を知り、礼儀を正すことができるとした。
荀子が重視したことは「後天的努力」であり、「孔子ですら生まれたときから聖人だったわけではなく、学問によって聖人になることが出来た」とする考え方。